Toshiaki Tashiro

Toshiaki Tashiro

 LONGY 4回目の個展が923日から6日間に渡って開催される。今回はいつもの個展とは少しだけ違う。写真家・嶌原佑矢氏がキュレーターとして携わり、誘致したのは現代美術家として活躍する田代敏朗だからだ。田代氏は高校在学中に佐賀県展・洋画の部において史上最年少16歳で主席(県知事賞、山口亮一賞)を受賞するなど、現在まで数多くの賞を受賞し、様々なコンセプトの展示や、自身を俯瞰し、内観しながら常にアートワークの進化を遂げている、まさに鬼才だ。産声をあげたばかりのLONGYがこの段階で彼を迎え入れて良いのか、自信の無さも含めて正直迷いがあった。しかしこのインタビューを通して彼の本音と語らい、芸術とは?表現とは?コミュニケーションを穏やかに深めることで、田代氏の頭の中とLONGYの心の内が自然とシンクロしていった。彼が今回LONGYで提案する作品は、LONGYのコンセプトとも近しいと感じることもできた。今を生きる田代敏朗という人に近しい異彩を、その内から溢れでる表現を、LONGYを舞台に披露できることを誇りに感じている。

美術家を志したきっかけは?

 僕はいわゆる普通の男の子でした。運動が好き、流行り物が好き、みんなと遊ぶのが好き。活発な小学生、中学生時代を過ごしていましたね。両親も美術に関わるような仕事をしているわけではなく、美術が身近であったというような経験もありません。ただ、思い起こせば、一度見たモノを模写することが好きで、その行為を得意だとも自覚してはいました。

美術系の高校を進学先と選んだ理由は?

 進学先を選ぶタイミングになり、僕は友達たちと同じように選ぶものだと思っていました。模写する行為は好きでしたが、絵をいわゆる芸術として描くことが好きな感じでというわけでは無かったので美術系は視野に入れていませんでした。ただ、進路指導の先生が「絶対に芸術系を目指した方がいい」と熱心に説いてくれ、佐賀県立佐賀北高校芸術コース美術学科を進学先として選択をしました。先生にそう思われていたこと自体が、僕にとってはとても意外でした。

高校に入ってからは夢中になれたのか?

 入学試験は面接と美術系の実技。成績も良い方でしたので、いわゆる、少し舐めた考えで入学をしました。そこから本格的にデッサンやオイルペイントや石膏を学び、少しずつ美術の世界に触れていきました。中学からレッスンなどを重ねて入学した、本気の同級生も数多くいましたが、自分の中ではなんとなく、この学校にいるのは自分の選択だったわけじゃない、不可抗力だ、と感じてしまう部分もありました。2年生の時に油彩を専攻しましたが、夢中になったかと言われると、そういう気持ちでは無かったのかなと考えています。

高校2年生16歳の頃に、佐賀県展洋画の部において史上最年少で主席(県知事賞、山口亮一賞)を受賞した。嬉しさは?


 県の展覧会に、一般の人に混じって作品を出展したんです。120号の大きな作品を出品しました。そこで県知事賞と、山口亮一賞をW受賞することができて。16歳の僕にはその快挙がキチンと理解できていなかったのですが、大人たちも、それこそ先生たちも出展した中でトップを取れたことは、素直に嬉しさを感じました。今思えば、いわゆる自分の無垢な才能というか、田代敏朗というそのままを表現できていたことで、評価をいただけたのではないかと考えています。

そこからまわりの評価も変わったか?

 大きく変わりました。それが、自分も想像していないほどの悪い方向に……。16歳の高校生、最年少ということもあって、テレビや新聞からも取材をいただけて。なんのコネクションもない自分が賞をとった。ただそれだけなのに、ことごとくバッシングを受けて。関係者からも嫌がらせをされたり否定的なことをたくさん言われて。その経験がきっかけで、美術の世界に穿った見方をもってしまい、自分で培ったものではない、違うパワーが働く世界なんだと、ネガティブに感じてしまうようになりました。

大阪芸術大学の映像学科に進学した理由は?

 高校時代は油彩を専攻し、美大進学コースにも通っていた。ただ、先ほど話したように、とても嫌な世界に触れてしまったことで、自分が進んできた美術から、美術を取り巻く環境から少し距離をおきたいという気持ちがありました。逃げていたんです。それが大学で映像学科を選択した理由です。

大学を中退し、美術とは距離をおいたのか?

 美術の業界がどうとか、自分では何を言っても、僕は美術の学問とともに成長をしてきた。人物を骨から描写するとか、ただ描くだけでなく、背景や思想を乗せて表現すること、そういった美術とは?という部分は染み付いているし、自信も持てている。ただ、自分が思っていない部分も可視化されてしまう、誰かに何かを評価されてしまう、そういった部分に理解が追いついていかない感情があり、大学を中退し、25-6歳くらいまでは作家活動を行いながらも、どこか美術の世界から逃げていたところがあったと思います。

表現が変わっていくことの背景としては?

 様々なメディアでも話していますが、最愛の祖母を自死によって失なった過去を2020年に公表させていただきました。僕は祖母から本当に愛されていました。ただ、未遂を含め、自分を傷つける行為を、小さな頃から見てしまっていた。そのことで自分自身も傷付いてはいたが、気丈に振る舞うというか、自分は何も知らないということを家族の前でも演じていた。画風がダークで、ドロドロとした世界観。そこにはたぶん、内面が勝手に作品に乗っかってしまっていた部分もあったし、エクスキューズな気持ちが無かったといえば嘘になる。その作品で賞も取ったけれど、誰も助けてくれない、自分は救われない。こんな自分の内面が出てしまうことは関わらない方が良いと考えたこともあった。自分の感情の操作が効かない世界、苦しんでいる自分も見つけてほしい、でも見られたくない。当時書いていた文章も含めて、そういったカマってちゃんじゃないけれど、複雑な感情が入り混じって、田代敏朗という作家の1人が少しずつ積み上がってきてしまっていたのだと思います。

その作品たちを今はどう思うのか?

 そのドロドロした田代敏朗のうちの1人は、とっくに死んでしまっていたのだと思っています。記憶の誤認というか、本当に思い出せない記憶もたくさんあって。ダークな部分がなんとなく自分の中で表現として美化されてしまうことすらあったり、自分のアイデンティティだとはいえない作品だと今は思っている。残しておくべき作品だとは思うけれど、誰かのためになるとは思えない気持ちがあり、正直、美しいゴミだとも感じています。

最近の作品は、軽快な作風も多いが?

 自分探しの旅をずっと続けてきました。25年間の作品を作品集としてまとめたこともあり、もう過去にあったドメスティックでパーソナルなことを作品に入れることをやめて、次の事に挑戦したいと思うようになりました。僕はミニマリズムな作品が好きで、デコラティブだけれども、白とグレーの世界観で整っているような絵を購入したりもしています。シンプルなレイアウト、そこに向けて作り上げるプロセス、そこで生まれる発想が大切だと考えていて。今は長野の山の麓に住んでいます。今回展示する作品もそうですが、建築用のスプレーを風に乗せてキャンパスに落とし、オイルでコーティングする技法を採用しています。風圧、気圧も測りながら、今の風向きだとこうなるなとか、工芸作家のような感覚も大切にしながら作品づくりを続けています。風だけが自分の思いを乗せてくれる、そう思って芸術に今は携わっています。

今回の展示、作品を通じてどんなことを伝えたいか?

 計算をして作るけれども、風が最後は決めてくれる。その境界線は、地平線にも見えるし、宇宙に見えるかもしれない。鑑賞者ごとに想像をして欲しいし、僕の作品を通して、少しでも誰かの成長に繋がれたら幸せだと考えています。また、僕は絵を描いてきて、苦しい思いもしましたが、そこで出会った人にたくさん助けられてきた。身近な人の死を経験すると、死に執着をもつようになる、それは反対に生きることだとも考えています。生と死を身近に感じ、日々生きていることを考え、いつ死んでもいいのかなと考えると、ミニマムなレイアウトの発想に辿り着くことができた。自然と作品の調和。これはLONGYの自然光が入り込むLONGYだから表現できる世界観だとも思っています。

今後の作家としての展望は?

 作品は人のライフスタイルと共に生きていくものだと考えています。文学もそうですが、作家は死んでも、作品は時代を飛び越えて生き続けていく。過去の自分のエゴイズムに対する懺悔もあり、ドロドロとした部分も感じて生きてきたからこそ、そこを通り越した際に見えてくる無垢な世界観。そういった部分を表現できればと。それと、光と影。影があるということは、光があるからこそ発生すること。影を理解することで、光の輪郭も繊細に感じ取れることができるんじゃないか、そういった感覚も追求していきたい。雨が降って気分が落ち込む人がいるくらい、人間って脆いものだと思う。でも、そんな脆さが、大きな気持ちで考えれば愉快で笑えてしまいます。そういった相反するモノの融合や、自然との調和というテーマを今は大切にしていきたいと考えています。

ARTIST PROFILE

1980年3月1日生まれ 佐賀県出身

佐賀県立佐賀北高校芸術コース美術学科卒業、私立大阪芸術大学芸術学部映像学科中退。
高校在学中に出品した佐賀県展洋画の部において史上最年少16歳で主席(県知事賞、山口亮一賞)受賞。大学中退後、本格的に画家としての活動を開始。
2003年日比野克彦氏、村上隆氏らの選出により六本木ヒルズ森アーツセンター「Artist by Artists」出展。
2010年、上野の森美術館大賞展入選。
2011年トーキョーワンダーウォール入選(2012年トーキョーワンダーシード出展)。
2011年、東北大震災のボランティアをきっかけに開始した「5000円プロジェクト」により
原画作品が3年の期間に700点以上の作品が購入される。
2014年、ひよこ本舗100周年記念として新しく誕生したブランド「DOUX’ DAMOUR」の全パッケージのデザインの元となるアーティストに抜擢。
2015年、言葉とゲシュタルト崩壊をテーマにした「New Language, New Communication」を発表。
初の作品集「New Language, New Communication(Wooly Arts)」を出版。
2017年、初となるニューヨークブルックリンでの展示「wooly in blooklyn」にメイン作家として出展。同年、福岡六本松蔦屋書店のグランドオープン記念としてのアーティストとして抜擢、個展「THE VERY END OF DAWN」を開催。
2019年より、アートシンキング、カウンセリング、セラピーやヒーリングなど様々な方面から解釈し独自に構築したアートワークショップを開催。現在300名以上の受講者を超え、年間10回のオンラインワークショップも行っている。

2020年、最愛の家族を自殺により亡くしていること、それに伴う自身の様々な経験や想いが創作のコンセプトとなっていることを公表。集大成となる作品集を作るために自身初のクラウドファンディングにて資金を募りプロジェクトが成功。画家人生25年の集大成となる作品集「Toshiaki Tashiro Art Works 1995-2020」を2021年1月1日に発売。

EDIT&TEXT

SATORU SUZUKI